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1945年5月6日、デトロイトのデイアボーンで生まれたロバートクラークシーガ―は、1961年から将来彼のマネージャーとなるエディ“パンチ”アンドリュースと共に、デトロイトを拠点としてトリオのバンドで音楽活動を始めた。 やがてアンアーバーに移り、バリーサドラー軍曹の全米No.1ヒット曲「The Ballad of the Green Beret」のパロディーソングである「The Ballad of the Yellow Beret」という曲をビーチバムスというバンドでリリースするも、サドラーに民事訴訟をすると脅され、シングル盤はすぐに回収となった。
1966年、シーガーはファーストソロシングル「East Side Story」をリリースしローカルヒット、続いてカメオレーベルから「Persecution Smith」、「Heavy Music」などのローカルヒットを飛ばす。 1968年、ボブシーガーシステムを結成しキャピタルレーベルと契約、同年春にデビューアルバム『Ramblin' Gamblin' Man』をリリースする。 タイトルトラックはチャートの17位となるが、続くアルバム『Noah』は成功せず、シーガーは大学に入る為に1969年の暮れにバンド活動を中止した。 夏の終わり頃、新しいバンドを従えて復帰したシーガーは、同年暮れに『Mongrel』をリリース、1971年にはソロでシンガーソング=ライタータイプのアルバム『Brand New Morning』をレコーディング、そのリリースに続いてシーガーは、パンチアンドリュースと共に創ったレーベル・パラディウムからの初のアルバム『Smokin' OP's』をリリースするも、そのアルバムと続く『Back in '72』に『Seven』はいずれもセールス的には失敗に終わり、シーガーはキャピタルレコードに戻る。
美しき旅立ち』をレコーディングする為にギター・ドリューアボット、ベース・クリスキャンベル、キーボード・ロビンロビンス、サックス・アルトリード、ドラムス・チャーリーアレンマーティンからなるシルバーブレットバンドを結成、シーガーはアルバム『美しき旅立ち』を引っ下げシルバーブレットバンドと共にロングツアーを開始するがその間アルバムはヒットには到らなかった。 1976年まで続いたツアーはデトロイトにて2枚組みのライヴアルバム『ライヴ』として録音され大ヒット、3年に渡って全米チャートにとどまりゴールドディスに、やがてはその4倍を売上げプラチナディスクとなった。
『ライヴ』の成功の余波はシーガーに、次のスタジオアルバム『炎の叫び』の77年初頭全米トップ10ヒットをもたらす。 アルバム『炎の叫び』は、「ナイト・ムーヴス」、「霧のメインストリート」、「炎のロックン・ロール」のヒットシングルも生み出し大ヒット作となる。 78年夏リリースの『見知らぬ街』らかも「裏切りのゲーム」、「夜のハリウッド」、「夜の果ての愛」、「忘れじのロックン・ロール」等のヒット曲が生まれ成功を収める。 アルバム『見知らぬ街』は彼をアメリカの最重要ロッカーの地位に引き上げた。 次の80年の『奔馬の如く』は、バラード曲の「ファイアー・レイク」、「アゲインスト・ザ・ウインド」、「わかりあえる時」を含み、初の全米No.1アルバムとなった。
81年のライヴアルバム『嵐の呼ぶ声』は300万枚を売上げダブルプラチナアルバムとなる。
82年には、『Seven』以来のセッションミュージシャンとの競演作『ザ・ディスタンス』を発表するも、ギタリストのアボットは不満を持ち、バンドを脱退してしまう。 彼の最大のヒットシングル「月に吠える」を含むアルバム『ザ・ディスタンス』は100万枚のセールスを記録するも人気は横ばい状態になり、シーガーはレコーディングとコンサートツアーを思いきって縮小する。
80年代のリリースは、86年の『ライク・ア・ロック』1枚のみだが、アルバムとそのツアーは共に成功を収め、映画『ビバリーヒルズコップ2』のサントラからのシングル「シェイクダウン」は1987年にシーガー初の全米No.1ヒットシングルとなる。
 4年後には『The Fire Inside』をリリース、アルバムはプラチナとなりトップ10に入るが、1995年の『イッツ・ア・ミステリー』は、『ライヴ』以来、初めてプラチナを獲得できない結果に終わった。 その後シーガーは長い充電期間に入るが、2006年に(ベスト盤は別として)11年ぶりの復活を遂げツアーも敢行、全く衰えを感じさせないライヴパフォーマンスは今も健在です。
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